大学での学びとは
大学におけるゼミで,以下のような話をする.
「諸君がこれまでに学んできた【先生】という存在は英語で何と呼ぶ?」
———多くの学生がTeacherと答える.
正解.
「では,大学の先生を英語で表現すると?」
———多くの学生が沈黙する.多分,Teacherではないんだなと勘ぐる.中にはボソっと正解を言っている学生もいる.
答えは,Professorと教える.
では,TeacherとProfessorの違いは何だろう?
———ほぼ全ての学生が沈黙する.発言しなかったら単位でないよw
Teacherとは,文字通りティーチする人.教える人.その大前提に,教える内容は「正しい」と一般的に保証されているものなので,基本的に教わる内容に対して疑いの目を向ける必要はない.
1+1は2であり,F=maなのだ.
では,Professorとは,何をする人なのか.
それは,Professする人なのだ.
Professとは,「公言する,明言する」という意味であり,転じて「【我々はこのように考える】と公言する」ということと理解している.
つまり,Professorが言っていることは,議論の対象なのだ.そもそも「絶対に正しい」という保証がないわけなので,最初から疑ってかかるべきである.
大学の先生だから偉いとか,大学の先生だから正しい とかではないのだ.そもそも,大学の先生が専門としてあつかう分野や研究内容は複雑多岐にわたるものなので,そこに「絶対的に正しいこと」という事象は少ない...と思われる.
研究や教育,実践を通して「真実」と思われるものを議論して探していく.そういうものが大学での学びであり,いわば論理的思考を持って議論を進めることこそが,大学で勉強するということである.
名著「知的複眼思考法」の著者である苅谷剛彦氏(現オックスフォード大学教授)は,そのなかで下記のように述べている.
以下,引用-----------
ですが,こうして必死に勉強してこれだけの「知識」を獲得したはずなのに,正直に告白すると,今の私にはいったい何をどれだけ読んだのかわからなくなっています.今でも,あのころに読んだ本は研究室の本棚におさまっています.読んだ論文のコピーも残してあります.それらを積み上げたら相当な高さになるほどの量です.しかし,どんな文献を読んだのか,そこにどんな知識が書かれていたのか,今ではもう詳しく思い出せなくなっているのです.
(中略)
それでは,あれだけの文献を読んだことは役に立たなかったのか.何も残らなかったのかというと,そうではない.知識に代わる「何か」が,身についたといえるのです.
それは,考える力——あるいは,考えかたの様々なパターンを身につけたということです.的確に,批判的に,情報を読み取る能力.問題を探し出す能力.素朴な疑問からスタートして,それを明確な問いとして表現する方法.問いの立てかたと展開のしかた.論理的に自分の考えを展開する力.そして何よりも問いをずらしていくことで隠された問題を探っていく方法.
(中略)
いろいろな人の研究を読み,それを自分の研究に生かしていく過程で,複眼思考のポイントとなる,こうした方法の様々なパターンを,自分なりに身につけていったのです.
(苅谷剛彦,2002,複眼的思考法)
以上,引用-----------
専門的知識を積み上げることも必要.いわゆる実践的な武器として人生において活躍させる為.
しかし,それ以上に重要となるのは,こうした知識を身につけようとし,工夫しようとし,表現しようとしてもがいている過程で身につくであろう力,それは教養と呼ばれたり,複眼的思考法とよばれたり様々であるが,そうした力を磨くことが,大学で学ぶということであると確信している.
もちろん,トレーニングも同じね.
絶対正しいというものは存在せず,今の自分にとっての最適解を,時には自ら,時には指導者の助けをかりて探り,実践していくというのが,学生アスリートたるべき姿かと.
もちろん,引き出しの少ない段階で「自分で考えろ」というのはいささか無理かつ無責任.だからProfessorには導く努力も必要.ただ,その先に新しい学びがあるという共通理解を持って,問題の解決に臨むべきである.
長らくブログを放置してすいません.
こんなことを考えたり,実践したりしていくうちに,更新するのが面倒になってましたw
今後もよろしくお願いします.