大学の教員は授業や教育が上手くて当たり前か?

昨日の日記に対する,おそらく教え子であろう人物からのコメントをみて気づいたこと.

「話のプロである先生方」

つまり,学生は我々大学の教員を「話しのプロ,教育のプロ」という目で見ているということだ.



一方,社会が大学教員を審査・評価する時,最も一般的に用いられるのが「業績」だ.

つまり研究成果である(体育大ならば日本代表の監督になったなどは評価されるか?).

そこに「教育」に関するウェイトはあまり大きくない気がする.

例えば,夜中まで卒論生や大学院生のレポートや論文を添削しても,学会の発表練習に何度もつきあっても,部活動のために休みを返上し,月月火水木金金という日々を送っても,それは「裁量労働」であるため,残業として見なされるわけでもない.

それは「あなたが必要だと判断して行った活動」というだけのことだ.



おっと,勘違いしないで欲しいのは,これに対して文句があるわけではない.最後まで読んで欲しい.



例えば,大学の教員として世間に名前を売る(?)には,評価の高い研究雑誌にバンバン論文を投稿したり,本や雑誌,教科書を書いたり,テレビに出たり,,,体育大ならば自分が関わっている部活動を強くして有名にしたり,または大学とは基本的には関係のない社会的活動を頑張ったり,,,,するのが一般的か.

ん? ここにも「教育」という文字はないな.


そして,こうした考えを裏付けるものとしてFDがある.

FDとはFaculty Developmentの略語であり,大学教員の教育能力を高めるための実践的方法を示す.

詳しくはコチラ



大学教員が皆「授業のプロ」ならば,FDなんか必要ないんじゃないか?

それぞれの先生が自分の人生を懸けて作った授業の行い方,あり方,ポリシーをそのまま発揮してもらう.

それぞれの専門が活かされた多種多様の,しかし全てが緻密に考えられた授業が揃う.これはかなり魅力的だ.

しかし,実際には(いろいろな理由があって)そうもいかないから,FDという事業によって,大学教員の教育能力を高めましょうよということになる.

もちろん,学生からのニーズの多様化もFDが生まれた要因であろう.



しかし,私が言いたいのは,,,大学の教員というのは,人材教育・育成という社会において,これからの未来において非常に重要な役割を担っている職業であるということだ.

お金儲けで大学教員なんかになっているわけではない.

有名になりたいから大学教員になっているわけではない.

「日本の武道・スポーツ界の未来を切り開き,支える人材を育てたい」から大学の教員になったのだ.



つまり,学生が思っている通り,我々大学教員は「教育のプロ」であり「話のプロ」でなければいけない...のではないだろうか.

そうした上での研究活動であり,業績である...という考えは大学教員として甘いのだろうか.


ん? ということは大学の教員を評価する際,「教育」に関するウェイトがあまり大きくないように感じるのは,「大学の教員は授業や教育が上手くて当たり前」だからなのか.

そうか,そういうことか.

でも,授業が上手い,教育が上手いっていうのはどうやって評価するのか...うーむ.問題はつきない.だからこそ今を頑張ろう.一所懸命にだ.