技術論 感覚においても慣性の法則は作用する

今日は技術論,というか技術のとらえ方について.

じつは今,MNBのFBにて「やり投げの投擲動作」について2つの技を比較し,皆さんの意見を頂戴しているところだが,,,,



こうした技術を語るについて,大切なのが「慣性の法則」「動作全体の流れ」である.

連続写真なんかを見始めた高校生などが陥りやすいミスとして,ある一局面の形に囚われてしまい,その前後関係を無視してしまうということ.

ある瞬間を捉えた写真,その30分の1秒,60分の1秒を捉えた写真から,我々は動きを思い起こし,トレースしようとする.

たとえば走っている時.その30分の1秒を捉えた写真で,膝がすごく高くあがっていたとする.

すごく高くあがっているということは,そのしばらく前の段階で膝が高くあがる勢い(運動量)が発生しているということ.

つまり「高く上げようとはしていないのに」,慣性が大きく作用しているためにあがってしまっている.そしてこの場合,膝(というより脚全体)が前方へ移動する速度が大きいほど,なおさら勝手に高くあがってしまうという現象が起こる.

逆をいえば,膝を前方へ移動させる能力が低い(一般的には走るのが遅い)選手では起きにくい現象であり,そうした意味で膝を高くあげることを意識しても,速く走るためには意味がない可能性があるということ.



そしてその次に難しいのは,そうした技術を実施しようとする際に感覚においても慣性の法則は作用するということ.

やり投げのラストクロス.左足で「グッ」と地面をおした感覚はその直後まで残存する.

わずか0.2秒にも満たないその残存感覚を「敢えてのこす」のか「途中でカットする」のか.

ただし,感覚的にカットしても,動作としての慣性は残る.それは動作の余韻として残る.

この余韻としての動きを「主動作に続く動作」として捉えてしまうと大きな間違い犯すことになる.同時に,連続写真だけで動きを評価・判断しようとすると同じく致命的な間違いを犯す.

「グッ」で終わるのか,「グゥッ」と余韻を残すのか,それとも「グヮッ」とより余韻を強めるのか.....



先ほどの疾走時における膝の高さも,こうした余韻によって生じている動作であり,その選手がそれをどのように「感覚的に処理」をしているかを知らなければ,本当の意味はわからないかもしれない.

このように本人が「やろうとしていないのにそうなっている」,「ある程度は意識しているけど,そこまで重視はしていない」「そもそも意識しているのは別の段階」というように動きと感覚の間をしっかりと理解しなければ技術について語り,考えるのは危険である.なぜなら動きだけをみて語ることは誰にでもできることだから.