教育・指導・しつけ

昨日の3限,陸上競技指導法ゼミでの話.



「教育・指導・しつけ」



教育を分解すると「教」と「育」

教えるという言葉の語源は「棒をもって注意する親子関係」

重要なのは「主従関係」ではないという点.

つまり教えるということは一方通行ではなく,受け入れる側の姿勢も重要であるということ.

その結果として「育」がある.

育つとは独り立ちするということだ.

つまり教育とは双方の思い・努力があって初めて成立するものである.




では指導とは?

文字通り「指し示す」という意味であり,指導を行う者による「行為」そのものを示す.

これは教育とは異なり,双方向性を持つ言葉ではない.

完全なる「一方通行」である.

結果として,指導者の立場を尊重して,もしくはその行為に納得して「従う」ということはあるが,それはあくまで指導の結果であり,指導の範疇には含まれない.

指導は命令とは異なり,相手に対する強制力はないというのが本来の意味のようだ.




ならばしつけとは?

しつけを漢字で書くと「躾」だ.

これは日本独自の漢字らしい.

身体を美しくする. キレイな言葉だ.

この場合の身体とは,もちろん行動も含まれる.

つまり,人としての行動を美しくする,させるのが躾である.



ここで,もう一歩深く踏み込んでみよう.

躾はもともと「仕付け」から来ているようだ.

仕付けとは反物屋,呉服屋で使われる言葉であり,「仕付け糸」というように使われる.

仕付け糸とは,本縫いの前に生地がずれないように仮止めするための糸であるため,本縫いが完成すれば当然ながら除かれる糸である.

仕付けが終了したということは,本縫いが終了したということであり,つまるところ着物が完成したということになる.



この過程にこそ,躾がもつ本来の意味が表現されている.

つまり躾とは,一人前になるために,その方向性を指導し,教育することである.

そして一人前になった段階で躾は終了する.

躾の究極の目的とは「躾をしないこと」となる.

そういう意味では教育と重なる点がある.



以前,コイツに「監督の最終目標は何ですか?」ときかれたことがある.

上記の考え方を引用し(したつもりで)「監督がいなくなること」と答えた.

ただ,少々間違いを含んでいることに最近になって気づいた.

誤解を恐れずに言わせてもらえるならば,我々教育者・指導者の最終目標は,学生を,選手を独り立ちさせることであり,我が手を貸さなくても立派に前へと進める人間を育成することだ.

しかし,よくよく考えてみれば,それは大学の4年間を通しての目標であり,監督であるMNBがいなくなってしまえば,当然ながら達成出来なくなってしまう.

監督がいなくなった瞬間から一切成長しない,人員も変化しないチームであればそれでも良いかもしれないが,学生は,チームは日に日に成長する.

残された学生を誰が教育するのか.指導するのか.しつけるのか.

私は浅はかだった.言葉の怖さを痛感した.




次に「監督の最終目標は何ですか?」と聞かれたらどうするか.

「自立した選手・人間を育成すること」


まだしっくりこない.数年後はまた違う言葉になっているだろうか.



それでも行動は変わらない.

学生と真摯に向かい合うことは変わらない.

さあ,今日も1日が始まる.

頑張ろう.