知を磨く 追記

学生と話をしたり,相談を受けたりする際に気づくことがある.まず,多くは「自分の考えを他人に対して論理的に述べることができていない」ということである.
自分にとって何が問題で,どのような解決策を講じたのか,そして私に何をして欲しいのか.という点を,会話をしながら引き出すという作業が求められることが多い.

これと関連することでもあるのだが,問題を解くのは比較的得意でも,問題を作成したり,発見することが苦手という傾向も認められる.


我々教員という立場から学生を評価する際,こうした印象はいつの時代でも生じていると察するが,こうした学生の傾向について,京都大学大学院の東郷雄二教授は「知的に打たれ弱い症候群」と命名している.

インターネットが普及していなかった我々の中学,高校時代は何かしらべなければいけないことがあれば,自らの足をもって移動して人に聞き,調べる必要があった.
大学生や大学院生になっても,図書館という巨大な森のなかかから,自らの手足を使って答えやヒントが掲載されている本を見つけ出さねばならなかった.

そして,苦労の末に答えに辿り着いたときは感動したものだ.一つの答えに辿り着くまでに消費するエネルギーも多いが故,感動は大きなものになる.


一方,最近では私もそうだが,インターネットの普及によって簡単に答え(のようなもの)に辿り着くことができる.足を使う必要はないため,答えに辿り着くまでに消費するエネルギーも圧倒的に少ない.イコール感動も少ない.


何かの答えを探してエネルギーを費やしている時間こそが,知を磨いている時間だったのではないかと思う.そして不格好ながらに,磨き上げ,答えに辿り着いたときには,その答えは文字通り自らの武器となる.自らが磨き上げたものだから,切れ味も良かろう.


論理的思考力,説明力,といった技を磨くことも重要ではあるが,それと同じく,知を磨く時間を作ることも重要である.これは勉学だけでなく,人生における生き方についても同様ではなかろうか.


追記
身体技法も同様ですね.