自分より優秀な人間が導いてくれるとは限らない

教養が何故大切か.

卒論発表会後の打ち上げで学生に色々と話をした.



一言でいってしまえば「自分の周りに自分より優秀な人がいなくなった時に困るぞ」ということ.

もちろん,「何に対して優秀か」という前提と,「その何かは自分の人生にとって大切なものか」という議論があるが,それはとりあえず置いておき,やや抽象的なまま話を進める.



たとえば,大した教養や自分で考える力,自分で決定する力を磨かなくても,周りにいる大人や,仲間が決めてくれるのであれば問題ない.

その決定が実はあまり良いものでは無かったとしても,たいした痛手は負ってこなかった.やはり問題ない.

自分で考えたり,決めたりするのは難しいし,面倒くさいから「とりあえず周りに流されておこう」としても,周囲に優秀な人がいて,その人が決定しているのであれば,やはり大きな問題には直面することは無い.のかもしれない.



しかし,年を経て,大人になり,だんだんと自分で決めなければならない出来事が増えてくる.そしてそれは今後の人生に大きな影響を与える可能性が高い.そうなった時に自分を助けてくれるのが「教養」だ.

確かに学生時代は本なんか読まなくたって生きていける.

いろいろな優秀とされる人についていって教えを請いたり,勉強したりするのは面倒だ.お金も時間もかかる.そんな事しなくたって楽しく生きていける.

楽しく旅をするのは最高だ.とりあえず酒を飲んで麻雀して.夜更かしをして海で泳ぐ.最高だ.

そうやってなんとなく楽に,楽しく過ごしてきたから,多分このままなんとなく生きてもいけるのだろう.




そうして就職し,仕事もこれまでの学生生活と同じようになんとかついていく.

そして,ある日,突然.自分で判断しなければならない出来事に出くわす.

その判断が正しいかどうかは解らないが,それでも大きな利益や損害はなかった.

一安心もつかの間.ふとしたキッカケにより周囲の人間にも影響がでてしまう判断をしなければならなくなった.

そこで後悔できるならまだしも,教養そのものが武器であることすら理解してなければ,「もうやぶれかぶれだ」という自暴自棄に似た決断をせざるをえなくなる.

いわゆるバクチだ.

こうした判断,決断というものは,ある部分では「しかたない」という成果に収まってくれるが,本人が見えていないある部分では「あれは失敗だ」という評価を受けることが多い.

結果,自分が思っていたよりも低い評価しか受けれないことになり,気づいたら思っていたような賞賛を得ること無く,思っていたよりも上手くいっていない人生だと愚痴をこぼし始める.



自分より優秀な人間が導いてくれるとは限らない.そんな時に頼れるのは教養だ.



そして芯の太い,しっかりとした教養というものは長年かけて磨かれるものだ.

大丈夫.今からでも遅くはない.多くの人と出会い,多くの優秀な人から教えてもらいなさい.多くの旅を経験しなさい.そして多くの本を読みなさい.教養という武器はそうして磨かれる.






2015年2月19日追記

偉そうなことを書いているが,こうした思いを綴れるようになってからは,なおさら教養の大切さに気づいた.私自身ももっともっと磨き続けていきたい.常に納得できる決定ができように.