目的や目標を形だけにしておかないこと
「オリンピックで金メダルをとった」という経験は,おそらく人類において非常に貴重な宝なのだろうけど,その本人がいつまでたってもそれにしがみついていては,その本人の評価は下がる.少なくとも時間の経過とともに印象は代わり,4年後には新たな金メダリストが生まれ,「○○の金メダリスト」という肩書きや名札は誰かに奪われる.
金メダルを取ったという経験の価値は変わらないと思うけど,それは「元金メダリスト」が「今も魅力的な人物」であるからこそ輝くのではないか.
これはインカレでも,インターハイでも,全日中でも一緒だと思う.
MNBの知人に息子さんがいて,その息子さんはある種目の高校総体において優勝したレギュラーメンバーだったそうだ.
もちろん,選手達のご両親は,息子さんを大変誇りに思い,一生懸命応援した.その結果,インターハイで頂点を勝ち取った.
素晴らしい経験だと思う.
でも,ふとその知人が漏らしたのは「今度,冬の選手権もあるんですけど,なんか我々親がバーンアウトしてしまったというか,インターハイの時のような熱が沸いてこないんですよね.多分,インターハイで頂点をとっちゃったから,冬の選手権は勝てなくてもいいよね.と感じているのかもしれません.もしくは,あれほどのサポートと応援がなければ勝てないと考えてしまって,再度,アレをやれと言われても,もうできないなと感じているのかも.サポートしている自分たちがそうなのだから,子供達はどうなんでしょうか? あまりにも凄い経験をしてしまうと,次に進みにくくなったりするものでしょうか?」という言葉.
勝利そのものに価値はあるのだけど,それと同じくらい,いや人生における汎用性という意味では,それ以上に価値があり,かつ価値が変化するのが「過程」ではないだろうか.
全日中で優勝する,インターハイで優勝する,インカレで優勝する,日本選手権で優勝する! という強い気持ちは素晴らしいし,強くなる過程では絶対に必要な信念だと思う.でも,その先を考えた場合,ただそれだけでは続きがないし,寂しいのではないか.インターハイで優勝した! だから,今度はさらに上に目標を切り替えて,インカレで優勝する! そして日本代表になる! と次々に目標を上塗りしていくにはどうすればよいのだろう.
実は,そこに教育的立場にある指導者としての価値があるのではないか.
コーチという指導者を示す言葉の語源はハンガリーのKocsで実用化された四輪馬車であるKocsi(コーチ)というのは有名な話.
「乗客を目的地へ運ぶ」が転じて,「学習者を目的地へ運ぶ」となり,それがコーチの役割であるとされた.
その目的地は学習者によって様々だろう.
単純に勝利でもあるし,記録でもある.「強くなること」という抽象的概念でもあるし,「まあ,何となく楽しければいいや」かもしれない.
となると,目的や目標を形だけにしておかないことが大切かもしれない.
もちろん形として持ちつつ,その一方で抽象的な概念も準備しておくこと.
そうすれば「インカレで勝ったからもういいや」にはならないだろうし,過去の栄光に縛られることも,踊らされることもないのではなかろうか.