大きく変わる必要はない.長く変わり続けよう.

人は他者から受ける評価と,自分自身で行う評価には,およそ3割もの隔たりがあるという.

つまり,他人からは「あいつは65点だな」という評価をうけていてても,自分では「俺は84点くらいかな」という評価を下しているとのこと.

具体的なソースは失念してしまった(大学教員の端くれにもおけない!!).




まあ,3割とは言い過ぎだとしても,他者評価<自己評価 というものには納得できる.



おそらく,こういった「自分を正しく評価できない」ということが,いろいろな成長を阻害しているのだろうと,グラウンドで汗を流す選手達をみて強く感じている.



たとえば,練習開始の集合で「今日はまちにまったポイント練習.とても重要な練習だから自己ベストを目指してしっかり走ろう!!」とゲキをとばし,選手達も目をキラキラさせて「ハイ!!」と元気よく返事をする.

ところが,蓋をあけてみればタイムは散々,さらにゴール手前で流す選手もいる始末.

ひとつの「陸上あるある」ではないだろうか?



ここで重要となるのは,選手は選手なりに,おそらく本当に「頑張った」のだろうということ.

もちろん,なかにはすっとぼけた選手もいるかもしれないが,多くの選手は,練習開始の集合で「全力で頑張ります!!」と宣言したとおり,頑張ったのだろう.

だから,オマエは頑張ってねーよ!! とゲキを飛ばしても,「いや,自分は頑張ってます!!」という,意味のない押し問答になってします.

それこそ最悪なのは「俺は真剣に頑張ってるのに,コーチはそれを認めてくれない.もうこんなチームはいやだ」となってしまう.




さて,お気づきだろうか.

ここで問題となるのは,同じ「頑張る」にも差異があるということ.

例えば,客観的に「全力で頑張る」という現象をとらえることができたとした場合,その構成要素のなかには「ゴール手前で流すこと無く駆け抜ける」というものがあったとする.

しかし,選手は「主観的に頑張った」と判断しているわけで,ゴール手前で流したなんて記憶も感覚もないことが多い.

つまり 他者評価<自己評価 である.




では,どうすればいいか.

ひとつお願いがある.

今より,もっと強くなりたいならば,「今よりも全てのことを1%」努力してみよう.



たとえば,御飯をたべたら「手を洗う」だ.

手を洗うことで風邪を引く確率が1%でも低下すれば,それは強くなるための立派な努力だ.

安眠できる枕を探す.食事のメニューにちょっとだけ気を遣う.夜は10分だけ布団に早くはいる.あと1セットだけ頑張ってみる.




自己評価が高い選手というものは,「自分を一気に強くしてくれる決定的な要因」には強く興味を示すものだが,「日常のなかでより良い選択をすること」には興味が薄い.

目に見えるような大きな結果に繋がらない変化には興味がないのだ.

けれども,人生において本当に大切なのは「1%の積み重ね」である.

今,君が来ているTシャツは1%でも強くなるために貢献できているか?

今から食べようとしているお菓子は1%を阻害していないか?

今,おこそうとしている行動は1%の努力に匹敵するか?



大きく変わる必要はない.

1%の積み重ね.長く変わり続けよう.